50年前の鎌倉大仏
2017-07-03


前回)からの続きです。

前回紹介した「江ノ島稚児ケ淵」の50数年前の写真、
それが見つかったのは次のアルバムでした。
禺画像]

禺画像]
私の小学校の卒業記念アルバムです。

実は私は子供の頃の写真は全部捨てたつもりでした。
多分、思い出写真なんかはどんどん捨てちゃう方がカッコいい、
というちょっと見当違いな考えを持っていたのだと思います。
だから実際に、私の幼少年期の写真はあまり残っていません。
ところが私の知らないところで、母が一部保存していたのでした。
保存していたというよりは、母の性格からすると、
適宜処分するのを、ずーっと怠っていたと言う方が正確かもしれません。
ともかく、そんな鷹揚な母の性格のおかげで、
こんなアルバムの類が何冊か残っていて、
母が亡くなった後、私が引き取ることになりました。
そして、私が先日の鎌倉旅行から帰ってきた後に、
「江ノ島鎌倉への昔の修学旅行の写真もあったかもしれないな」
と思って探してみたら「稚児ケ淵」の写真があった訳です。
当時、小学校の修学旅行としては「江ノ島鎌倉」は定番でした。

ちなみに、修学旅行時の写真はもう一枚ありました。
禺画像]
高徳院のあまりにも有名な「鎌倉大仏」ですね。
当然、今回の旅行でも撮りましたよ。
禺画像]
昔と同じアングルからの写真になったのは偶然、というか、
撮影地点がここになるのは昔も今も必定ですね。
裏に回って次のような写真を撮る物好きは少数派です。
禺画像]

禺画像]
「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」(晶子)
フィルムの一コマ一コマが、
その後の焼付け&引延しも含めれば、とても高価で貴重だった時代には、
大仏の背中や歌碑の写真などを撮るのは、
浪費以外の何物でもありませんでした。

さて、ここで今回の旅行の本来の目的を思い出してみると、
それは「アジサイ巡り」でした。
北鎌倉から鎌倉まで紫陽花を求めてお寺巡りなどをしたのです。
例えば、駆込み寺(縁切寺)として有名な「東慶寺」で、
禺画像]
あるいは「亀ケ谷(カメガヤツ)切通し」でも
禺画像]
アジサイが丁度見頃でしたね。
そして、アジサイと共にあちらこちらで見かけたのは小学生のグループ。
禺画像]
上の三枚の写真のいずれにも、
四、五名で行動している男の子・女の子が写っているでしょう?
この亀ケ谷切通しを歩いている時に、その内の賢そうな男の子が、
「『海蔵寺』に行くには、この道で良いのでしょうか?」
とよりによって女房に質問していました。
大人はみんな正しい道を歩くのだ、と信頼してくれているのですね。

続きを読む

[昔と今の写真(番外)]
[母のアルバム]
[旅のつれづれ]

コメント(全0件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット