昔の写真を見ると、境内にはバラックが建っていたり、
プロパンボンベやテレビが放置されていたり、まるで戦後の混乱期のようです。
上の写真の中央のバラックなどは、ちょっと用途不明です。
横から見ると、下の写真のように結構奥行きがあります。
外壁は、ナマコ板か工事用のシートのような安物。
きっと物置として使われていたのではないでしょうか。
そんな建物でも、こうやってモノクロ写真に納まると、いい雰囲気です。
実は、この写真は私の好きな一枚なのです。
モヤっているのか遠方が霞み、日差しのない低コントラストの画面に味があります。
昭和50年代の大改修の時、本堂と渡り廊下でつながっていた部分(多分「庫裡」)
が拡張され、バラックの物置はクリアランスされたようです。
残念なような喜ばしいような気分です。
この改修の時に片付けられた物の一つに、石灯籠の台座があります。
下の写真で参道の両側に六角形の巨大な台座が写っています。
本体は多分、震災か戦渦により消失したのでしょうが、次の写真で分かるように、
本堂に近く、景観上も重要な立派な灯籠だったはずです。
台座側面に文字が刻んでありますね。
読み取れる部分はこんな風です。
『願主 大円日行』、また、
『明治四十二年十月再建 威光山四十六世 日龍代』
願主の「日行」なる人物は、
境内の複数の石造物に名前を残す18世紀頃の篤信者らしいです。
また、「日龍」とは、威光山法明寺の「四十六世一妙院日龍上人」のことでしょう。
法明寺の『由来と歴史』によれば、
この方は、関東大震災で倒壊した法明寺本堂を再興した山主でもあります。
そういう意味では、きっと大切な石灯籠であったはずですが、
本体を持たない悲しさ、この台座は今では境内の片隅に打捨てられています。
上川口屋の万代塀の脇に四つ揃って放置されています。
と思ったら、これは放置されているのではなく、ベンチとして再利用されているようでした。
女性に休憩場所を提供して、これなら、日龍上人も喜んで下さるかな?
元の場所には、新しい灯籠が奉納されていました。
昭和55年奉納だそうです。丁度、本堂の大改修が済んだ時です。
新灯籠と銅板葺きの屋根と、眩しい美しさだったでしょう。
数回に渡って鬼子母神の昔と今の違いを、主に建物の配置について確認してみました。
鬼子母神は人気スポットなので、世間に流通する情報の量はとても多いですが、境内の変遷と言うかこの種の情報は案外に得難いことを知りました。
せっかくなので備忘録代わりにブログに纏めた次第です。
私の頭の中は、かなりスッキリしました。
ついでに、昔と今の配置図を並べて対比できるようにしました。
勿論、駄菓子屋の「上川口屋」も記載しました。
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