上り屋敷の風景、今と昔(1)
2012-05-18


目白駅北西の住宅地を「上り屋敷(あがりやしき)」と呼びます。この言葉は江戸時代の狩り場の休憩所を意味する言葉で、この近くに幕府の狩猟地が広がっていた事に由来するそうです。その名前を冠した公園があります。豊島区立『上り屋敷公園』です。
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園の中央にあるムクノキがとても大きいので、この公園は100年以上前から存在していたのだろう、と勘違いする人がいても不思議ではありません。しかし実際には、私が70年代に目白に暮らしていた頃は公園ではありませんでした。農林中金のテニスコートだったのです。
多分、農林中金と豊島区との間で何らかのやり取りがあり、その結果この敷地が豊島区のものになり公園計画に結びついたのでしょう。
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このテニスコートの南には、道路を隔てて木造のアパートがいくつか存在しました。そのうちの一つの共用廊下から1973年の8月に撮影したのが上の写真です。ちなみに撮影場所となった共用廊下はこんな感じです。
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上り屋敷の地域には、当時はマンションと言えるものは少なく共同住宅の多くは木造のアパートでした。昔ながらのお屋敷とアパートが混在していた町だったのです。
この公園近くにも立派なお屋敷がありました。孫文の支援者として名高い宮崎滔天ゆかりの住宅があります。その住宅前から公園方面を撮影すると現在はこのような風景です。道路の突き当たりが公園です。
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同じ場所で1976年のお正月に撮影した写真があります。住宅の木塀は全く同じ風情ですが、道路の突き当たりが公園でなく、テニスコートのネットです。その奥に写っている建物は農林中金の寮です。
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また、1974年の節分の頃に上り屋敷に雪が降りました。その時のこの場所を逆方向に撮影した写真がこれもたまたま残っていました。
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左側の住宅の塀も立派です。庭木も半端ではないですね。明治・大正の頃からこの地に暮らして来た方達が「上り屋敷」という言葉でイメージするものは、このような風景かも知れません。

続く
[目白の風景 今昔]

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