昨年末に伊豆下田へ温泉旅行をしました。
下田は、思い返してみると21年ぶり。
1994年の夏、白浜海岸に海水浴に来て以来のことでした。
そして下田で、あの「唐人お吉」に再会しました。
場所は市内観光の途中で立ち寄った「宝福寺」です。
先ほどの肖像写真は、多分デジタル処理をしてクッキリさせていますが、
「お吉」の写真の原版はこれです。
だいぶ色あせていますね。
昔はどうだったかと言うと、21年前はこうでした。
こちらの方が、僅かながら明瞭でしょうか。
やはり年月とともに原版写真は劣化しているようです。
貴重な写真が年月とともに色あせるのを恐れて、
人着(人工着色)に挑んだ方がいたようです。
今回見た展示物の中に、次のような写真がありました。
そういえば、私も人着を試みた事がありましたっけ。
(「
美貌の叔母の『記憶』に着色」)
こういう美人の面影を前にすると、
何とか昔の姿を甦らせたいと思うのが男のならいなんですね。
さて、1994年の写真にこんなものがありました。
写っているのは唐人お吉の法名を記した過去帳ですね。
過去帳の右側に解説文があり、
「...二頁の最初、貞歓信女がそれである...」と書かれています。
私が何故この写真を撮ったのか思い出せないのですが、多分
「ああ、この薄幸の美女は、作り話ではなく実在したんだ」
と自ら実感するために撮ったのだと思います。
そんな「お吉」の生涯を、
展示ケースの中の額絵の一部も交えて復習してみます。
下田の若く美しき芸子「お吉」には船大工の鶴松という恋人がいました。
二人が逢瀬を楽しんでいる様子が下の写真左側です。
ところが、その美貌があだになり、
米総領事のハリスに見初められたお吉は、お奉行から
ハリスの洋妾(ラシャメン)となるよう説得されました(写真右)。
執拗な説得に遂に折れ、領事館へ奉公に行く事になります。
しかし、僅か3ヶ月後にはお役御免となり、やむなくお吉は芸者に戻りました。
その後、鶴松とヨリを戻して所帯を持ち、髪結業を始めますが、
元ラシャメンへの偏見もあり店は行き詰まります。
また、周囲の冷たい眼差しに苦しみ、酒に逃避するようになり、
鶴松とも不仲になったあげくに分かれてしまいます。
そして、再度芸者に戻り、
自ら安直楼という置屋・料理屋を始めますが、
一度おちいった酒乱の生活から立ち直れず二年で廃業。
酒浸りの乞食となったお吉は、
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