武家屋敷から銀行社宅へ
2012-08-29


鬼子母神から雑司ヶ谷周辺を散歩した1975年の写真の中に、場所不明の切り通しの坂道の写真がありました。
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左側の石垣と右側の擁壁&万代塀に挟まれ、また両側からせり出した樹木の枝によって日光は遮られ、昼間でも薄暗い感じのする坂道です。
この写真の撮影場所は簡単には見つかりませんでした。当時の記憶も失われていたため、結局この周辺の坂道をしらみつぶしに見て回るしか確定する方法はありませんでした。

そして判明した場所が下の写真です。雑司ヶ谷霊園に隣接する日蓮宗清立院の南側の道です。(みたけざか「御嶽坂」と呼ぶらしい)
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左側の清立院の石垣こそ昔のままですが、空は開けこの日は天気も良かったせいか閉鎖的どころか寧ろ明るく伸びやかな坂道に変身していました。
右側の建物は「南池袋ハイツ」というマンションでした。これを新築する時に、地盤を切り崩して低くし、敷地の一部を歩道として提供したのでしょう。緑も多いし歩いていて楽しくなりそうな道ですよね。

それにしても昔の擁壁と万代塀は何だったんだろう?の疑問を解決したくなり、豊島区住宅地図の1975年版を調べてみました。地図には「第一勧業銀行雑司ヶ谷寮」とありました。
推察するに企業の土地がデベに売り払われてマンションが建つという良くある話のようです。
最初の写真の裏木戸のあたりをルーペで確認すると、確かに『第一勧業銀行/雑司ヶ谷寮/○○○』と三行のうち上二行は読めない事も無いですね。下に拡大してみました。
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それはともかく、このマンションの周囲を歩いてみると、ここが山の手台地の一部である豊島台から南の神田川方面へ下って行く高台にあり、日当りも眺めも良く素晴らしい土地であることが分かりました。
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マンションは高台側では4階建てですが、台地の下から見ると7階建てです。

そうなると、第一勧銀が取得する更に昔は一体どうなっていたのか興味がわきますよね。それで今度は幕末の「江戸東京重ね地図」を見てみました。するとこの土地は「禁裏附 大久保大隅守 二千石」の屋敷でした。ちなみに禁裏附(キンリヅキ)とは江戸幕府の職名です。
何となくその頃の雰囲気が分かります。高台に屋敷を構えるお殿様が、敷地南の低地を流れる小川とその周辺の雑司ヶ谷村の景色を愛でるという感じでしょうか。実際、この敷地の南には弦巻川(今は弦巻通りとしてその形が残っています)が流れていました。

その雰囲気を味わうために、私も敷地北側の清立院の階段をのぼってみました。
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そこから南を見下ろしたのが次の写真です。何となくお殿様か殿上人になったような気がします。
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私の中にこのマンションを買いたいという気持ちが沸々と湧いてきました。最上階の角部屋にでも暮らしたら本当に高貴な人間になれそうです。
早速、不動産情報を当たってみると、???です。南池袋ハイツという名称では全く取引が無いのです。賃貸に出ている様子もありません。
それで、更に調査です。結論としてはこういう事のようです。

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[目白の風景 今昔]

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